社会不適合なまいむちゃんのそれっぽいブログ。
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あまりにも更新が適当なので、ここらで一度アニメの歌の歌詞を紹介したり分析してみたりしようかと。何故、アニメかって?そりゃわしの基本だからさ。


ってなわけで今回は
げんしけん2ED「クラブハウスサンド」
作詞作曲歌、ゆうまお
をやろうかと。無論最近更新した記事があるため、というか久々に本編を見たので。


声も曲もこの発表当時の流行った歌手によくある印象のものかね。センシティブというか紳士ティブというかどこか自分を抑えたような、損する生真面目さをもったような曲です。でもこんな奴いまどきそうもいないとか思ってしまうわしもどうかとww
ほんでは以下歌詞。


やっとひとつ叶った 小さい夢を育てた
グローリィディ
そして「なにをするか」より 「キミといること」が
大事になりました

パイプイスをたたみながら 変なフレーズで歌う またあした
あのときのあしたに 願えば逢えますか?

たしかにボクらはここがだいすきで
笑顔で言えたんだ Bey bey
いつでもキミの味方になりたいと
思い出すとき アイはそこに
必ずあるから


全然くだらないことで 話盛り上がってすぐ
最終チャイム
そして休講掲示板の前を通り過ぎて
見送るモノレール

気づいた恋にフタをして 永遠のトモダチを選ぶ
それでいい それもいい 答えはもうでてる

確かにボクらは変わってゆくだろう
変わらない思い出もって
決して笑いあえない笑い話
怒りっぽくて涙もろい
キミが好きでした


はぐれた青春 とりまく現実
立ち戻ることで また進めるなら
逢いたいよ

たしかにボクらはここがだいすきで
笑顔で言えたんだ Bey bey
いつでもキミの味方になりたいと
思い出すとき アイはそこに
必ずあるから



本編及び原作を知っている人はこの曲の歌詞を見て第一声にこういう
「斑目ソングッ・・・」
そして同じくげんしけんOVA op 、manzoの「青春として」を聞いても同じことを言う人が多い。
っつーかみんな大好き斑目。みんな大好き檜山。


てのはさておき、一目で分かるとは思いますが、この曲は叶わなかった恋を経てアイという存在を確かに認識した主人公を描写している。捉え方次第では未だに相手を愛したい欲がある未練がましい主人公とも言える。「愛を前提にすれば男女間の友情は成立する」というとんちみたいなこずるいどっちに転んでも是であり非であることを言ったバカがいるがまさしくそんな感じ。

歌詞を聴いた印象だと諦めざるを得なかったというより諦めた方がいいだろうという理性的判断で身を引いたのだけれど、やはり心の奥ではそれを認められないというかそれでよかったのかという葛藤がある。

先に「キミが好きでした」
とあるのにその直ぐ後に
「逢いたいよ」
となっていて諦めたようで諦めてない矛盾。あとそれを解消しようとする意思があるものの、やっぱり全体的に自分から完全に諦める事は出来ないで心の自然消滅を願うどこか自虐的な響きがある。主人公は結構優柔不断ででも一途、ほんで片思いすらそれまであまりまともにはしてこられなかったような奴かと(分析すると改めて思い切り斑目じゃねーかと思う今日この頃)

で、やはりトモダチといいつつ一歩引いている部分があるのは自分を相手に上手く見せられないのと、見せても仕方が無いと思っている部分があるからで、おそらくは早い段階から相手には恋人がいたんではなかろーかと感じられる。全体的にヘタレで真面目な部分があるんだろーね。
でもやっぱり優柔不断で

「それでいい それもいい 答えはもうでている」

と答えが出ているフリしてるのにそれ「で」いいと強い語調て言った直後にそれ「も」いい、と若干言葉がパワーダウンしてるのが本当ににえきらんというかなんというか。
まあきこれは歌のした時に母音の音が「お」の言葉を先に出す間延びして尚且つ言葉としてのリズムが悪くなるからと、先に来た語句のほうが意味が強く結ばれてしまう印象があるからどこか意味として投げ捨てた感じに変容してしまうからだろうと。まあいずれにせよ逆の形にするとどこかで不具合が生じるからこの形以外ありえないんだけどね。



ほいで歌詞を目で見た印象としては謎の書き方があるってのが最初に先ず感じた。歌詞前半だとひらがなが多用されてるのに後半は普通に書き方が統合されてる。過去の部分にこだわってひらがなにしてるわけでもなく書き分けにはあまりみえない。これは多分後半部分に書き分ける必要のある語句が出てこなくて結果的に前半だけに偏って見た目は中途半端に見えてしまっているだけだとは思う。

ひらがなとか全体的に妙に浮いている部分をピックアップすると現在の主人公とは少し位置の遠い場所にあるものをひらがなにしているらしく

「なにをするか」
「キミといること」
「あのときのあした」
「たしかにボクらはここがだいすきで」

と今現在の主人公には出来ない事あるいは考えられない事が抜き出されている。主人公と相手とで今はもう共有できない事柄と言い換えてもいい。
表現のやわらかさを狙っている以外に何か効果があるのだとしたら確かな現在との断絶、そしてまさしくもう戻れない「あのときのあした」を表現しているのではないかと。

ついでに言うと愛も「アイ」でカタカナになっているがこれは多分主人公は相手を通して愛の存在を知ったのだけれど、愛する事にはいたらずそれは「相手の事を思う気持ち」という曖昧な理解しか出来ていないからこういう中途半端な表記になったのではないかと。音で聞くと同じに聞こえるしね。分かっているけど伝えられないってところでしょーか。
それで言うと「フタ」も曖昧な表記になって同時に蓋をしているようで出来てないということにも繋がるという。ってのは単なるこじ付け。これは蓋が堅い感じだからってだけだろう。


しかし歌詞を読む程にかなり真剣に好きだったんだなぁと(まあ恋するのに真剣とそうでないものがあるという事があるのか知らんが)
歌詞全体で特に印象に残るようなシーンよりも寧ろありふれた日常についてのほうが明確に表現されてるのだから本当に細部にわたって相手と会ったときの事をよく覚えているんだなぁと。
パイプイスをたたんで休校掲示板の前を通り過ぎてモノレールまで見送るのを全部覚えていると。

わし個人としては特にこの「パイプイス」のくだりが好きで、まあ歌詞としてはその後の「あのときのあした」への単なる連結部ではあるんだけど、たまり場でわざわざ毎回使うパイプイスを片付ける事ってそうはない筈で、なんとなく一緒に帰るのに相手の準備待ちの間を持たせるというかなんかタイミング合わせの為にわざわざパイプイスをたたむっていう事をしたヒトコマを差し込んだのがいいなぁと。

うむ、本当に何度も言うが歌詞を説明する前にさっさとげんしけんを読んでしまえば本当に説明要らずでそのままという感じです。ほほえましくて切ない。何かこう懸命さばかりが伝わるっつーかね。
それにつけても一番切ないのはこの部分。

決して笑いあえない笑い話
怒りっぽくて涙もろい
キミが好きでした

彼氏との不仲に悩む相手を慰め、諭す主人公。みたいなのが一番簡単なこの句を説明する文だと思うんだが、その図が浮かぶともう切なくてねぇ。「あの時はゴメンね、私もまいってたんだよ」つって相手にとっては笑い話でも、となるわけですよ。んで笑い話ですんだってことは彼氏と別れなかった訳でみたいな。真面目な奴にとってはこれほど辛いこともないわな。とか。


全体的に実は書きかたとか言葉の選び方のトーナリティは取れてないんだけど意図しているところとか意味とかががっちり結んばれてるから伝わりやすくていいよね。まあそういうイメージ先行なものが世の中流行な訳でやっぱり単純なのが分かりやすくていい。

ここまでの文章をご覧の通り無駄に考え込んで詩を書くタイプなので単純なの詩の方がワリと好きだったりする。まあ考え込むというわりには題材が思いついたらさっくり数十分で書けてしまったりするんだけど。

うむ、まあこんな感じでやっていこうかなと今後。でもこんなペースでやると死ぬ。一つ書くのに相当時間かかってやがるwww


あっと、あと一つ忘れてた。タイトルが「クラブハウスサンド」と、歌詞の中には一言も関わりの無い言葉になってるけれどこれは多分クラブハウスサンドを一緒に食べたりしたという思い出と、休講掲示板、パイプイスとあるように大学(専門学校もあるかもしれないけど)のサークルとかそういった集まりの中での恋物語っぽいので部室「クラブハウス」とか自分の恋と相手の幸せとの板ばさみ的な意味での「サンド」とかそういったのを掛けているんではなかろーかといったところです。多分というかそれ以上はあったとしても思いつかない。

ってなことでおおよそ説明しきったのでまた次回。
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今、

そこにいる

お前自身が

お前のすべてだ
⇒ 続きを読む
ところで一つ昔話をしよう。

昔シュレディンガーという学者は箱と猫と毒ガス発生装置を使って不思議な実験をした。箱の中で何かが起こると毒ガス装置は動いて猫は死ぬ。何も起こらないと生き残る。何かというのは何なのかはわからない。だから起こるか起こらないかは五分五分。猫の生死も五分五分。

ところが外からそれを見たシュレディンガーには猫が生きているかいないかわからない。どちらもありうる。シュレディンガーにとって箱の中の猫は生きているし死んでいる。生死を示す秤の針はどちらにも傾かない。なぜなら箱の中の猫の生死は完全に五分五分なのだから。

そうしていくらかの後にシュレディンガーは箱を開けた。

そこでこの昔話は終わっている。箱の中の猫の生死はシュレディンガーにしかわからない。箱の入れた直後に死んだかもしれないし、箱を開けた瞬間に死んだかもしれないし、全然ピンピンと生きているかもしれない。でも猫が生きているかどうか明確に分かったのはいずれにしても箱を開けた瞬間だ。だから猫は箱を開けた瞬間に生きていたという事が、あるいは死んでいたということが決定される。だから猫はいつでもその箱にいる間は生きてもいるし死んでもいる。そして生きてもいないし死んでもいない。

さてここで問題だ。箱の中にいた猫は果たして生きていたのだろうか、また死んでいたとしたらいつ死んだのだろうか。そしてシュレディンガーはいつ箱を開けたのだろうか、何故箱を開けたのだろうか。

このすべての矛盾を解決する答えは一つだけ。よく考えて答えてご覧。

答えは次回だよ。
やっぱりいい作品を見るとそこにはとても温かいものがあると感じる。なんでこんなに心穏やかでいられるのか、人間の持つ確かな力を感じられるのか不思議でしょうがない。

でもそういったものに触れる時にふと思うのが、これは多分わしだけが思う事ではないとだろうけど、何故今自分はこんな状況なのだろうと、心の温まる憧れの反対側の部分で酷く冷たい後悔と憎悪に近い物も同時に感じる事。

憧れの反面でそんなものを手に入れる事なんかできないあるいはできなかった、愛しさ優しさを感じる反面でそれが悠久ではない寂しさ悲しさを感じる。そういうことはよくある事だと思う。だって人間は変わっていく現状のなかでいつでも今を一番良い時にしていきたいと思ってるのだから。

どんなに幸せだったとしても今が辛ければ自分は不幸な人間だと思ってしまう。どんなに優しい心を持っていても日々で擦り切れ荒んでしまえば自分がひどく陳腐な存在に思えてしまう。まあそれは真だと思う。いつだって過去を考えるのも今を知るのも現在の自分だしね。

人間は強欲な生き物だ。大抵の物語はハッピーエンドで終わってくれるが、それが故にそれ以前の苦痛など些末な問題に過ぎないと捕らえがちで、それ以降に存在するかもしれない苦痛については考えないようにする。そうして過去に対しても未来に対しても羨んでいたり、あるいは疎んでいたりする。そんなに全部はもってけるわけがないのに。

まあもってける訳がないからすべてを手に入れたいと願うのだけれど。でもそう願うから今度は今の自分がひどくちっぽけに思えたり。現状がひどいものに見えたり。

中二病ってな言葉はわしは嫌いでね。でもネットで生きてると使わざるを得なかったりというかそういう表現をしないと伝わらない奴が多くて面倒で余計嫌いなんだが、まあそれはさておきそれを自称したり他称されたりする人のほとんどが「今の自分は本当の自分じゃない」とか思っているらしい。あくまでもこれは多義的に。もっと自分は凄い事が出来る、とかもっと自分は周りと違うんだ、とかだけでなく自分は本来こんなに恵まれてる筈がないとか、兎に角自分の心裡状況に現状がかみ合わないからそうやって逃げようとするらしい。まあ逃げるのは決して悪くないけれど。

自分でも果たしてそう思えているかは自信がないが、自分が何をしていようと何を思っていようとそれが自分の考えている事で自分自身なのだと、わしは思っていたい。

わしは本当の自分とか、居場所とかそんなもんはないと思っている。誰かに合わせる為に仮面をかぶったり、今の職場、あるいは学校などでなんとなく所在なかったり、それも全部そいつ自身だとわしは思う。だって、仮面をかぶったのはアンタで、その仮面を用意したのもアンタでそこにいるのもアンタだ。

自分の心の中でここは自分の場所っつって赤線引いて囲ってる奴を見たことあるかい?これは誰々の仮面で、これは会社用とか自分で用意しているつもりってあるのかい?無いと思うよ。だって目に見えないもん。だからそんなものはない。ないけどあるみたいにして生きていかにゃならんから悩む。自然体で、一番楽でいられる状況なんてあんまりないからね。本当じゃない自分で過ごす時間が多すぎるように思えるんだろうと。

まあでも悩まなくて苦しまない人生程つまらない物はないと思うけどね。自分がつまらない人間だとか不安でしょうがないとかそういう事を考えるのはとてもいいことだ。比較できるのはその逆を知っている訳で、自分をつまらないと思うのはそうではない理想があるって事で、不安があるって事はどうすれば安心できるか知ってる訳で。理想とか安心に至らなくてもそれを知ってるって事は一度はそれに触れているってことで。決して不幸じゃないと思うけども。

だから悩めよ少年的なww理想を掲げるのもいいけどね、別にポケットに隠してたって誰が怒る訳でもなし。自分が駄目だと思えばいいじゃないか。腐ってて擦れてて堕落してるとか悩めばいいじゃないか。しょーじきそんなに大層な事でも深刻な事でもないとわしゃ思いますよ。

だって物語がハッピーエンドで終わればみんな喜んだり羨ましがったりするんだし途中でどんだけ悩んででも結果が出れば万事OKでしょ。んでもって生きるって事はいつだって全部の途中なんだし。


更に明日分へ続く
さて、げんしけんの続きで御座います。実は二日にまたいだりするのは日数を稼ぐ為だったりとかになっている気がします。実際投稿は連続で行っているのでその通りです。

この日付の分を書いている最中も腹の中にはサントリーオールド。別に取り立て好きでもないけど買って残ってるのですよ。ウィスキーは飲む量が少量で済むので便利なのですよ色々な意味で。いや、日本酒とか焼酎も好きですけどね。ガブガブいっちまいそうなので金かかってちょっと貯金増やそうと思っている身としてはきびしい。ちなみに寝酒をやると寧ろ正しい睡眠が阻害されるのでよろしくはないそうです。だからどーした。

恋愛なんて別に人生の二の次でいいだろと思っている人間ではありますが矢張りこういったキャラクターの魅力に溢れている作品を見るとどうしてもカップリング等気になるところです。腐男子と書いてふなむしです。いや違うか。まいむちゃんです。ホモも別に嫌悪している事はありません。敢えて見ようとかいう気はないんだが。という訳でキャラクターの話。取り分けおぎーと勝手に読んでいる荻上千佳の話。あるいは笹×荻。笹とは主人公笹原の事。ヘタレぶりがちょっと自分に近いです。

過去に惚れた、と思う人物をあげて下さいと思うと必ず欝入ったようなタイプの人とか世間ずれしてる人とか兎に角どこか一般的人種とは違う、語弊ある表現ではあるがオカシイといわれるようなタイプがあがるわし。どうやら一般人を好きになることは出来ない呪いにかかっているらしいです。いや、わしとしてはそれも含め普通の女の子だよなぁとか思ってはいるんですけどね。いっそなにかしら病んでなきゃ萌えねぇとかそんなことでも思ってるんですかね。

でも何某か異常性を感じる人の方がわしには良いと思える。人を見る目はないですがそれでも他人の長所短所は比較的早くに把握出来ると自負しておるので本質とまではいかないまでも大凡の人間の性質とか言うのは分かるつもり。それを踏まえて個人的にはその荻上のような何かの異常性を抱えている人間の方がわしには魅力的に思える。何故かというのは簡単。矛盾しているように思えるだろうけど、そういう人間の方がまともだから。

この場合のまともとはあくまでわしの見識からなので「お前頭おかしいよ」というつっこみはスルー。
だってこれは真理だと思うんだけど、そういった異常性を持った経験がある奴のほうが根源的に優しさを兼ね備えているんだよね。盲目的に他者に優しい人間だって普通に考えれば異常でしょや?マザーテレサとか偉大だけど極一般的な生活をしている人間からみたらあれも異常だろ。彼女のしてきた事が事なだけにそうとはとられないと思うけどさ。悪意溢れるこの世界で生きるにはあの生き方は恐ろしいくらい馬鹿げてるしね。アンパンマンじゃない我ら人間は頭をちぎって他人に与えたら即死ということを理解してないじゃないかとすら思えるよ。まあ、理解した上で彼女はそんなことをきっと平然とやってのけていたのだろう。


まあそういうまともじゃない奴萌えなわしがおぎーに萌えるのも当然ということで、さっくり9巻読みきる間にすっかりほれ込んでいるわけで。そういう人ほど幸せになってもらいたいと思うのさ。で、おぎーが果たして幸せになったのかどうかは原作を最後までよんで見てくださいということで。

ヲタサークルに参加しつつもヲタ嫌いを公言していて、しかしやはりそんな彼女も腐女子なわけで、歩く道がいつも困難な訳で。そういったキャラクターにはほんと共感を覚えるし辛いし苦しいんだろうなと感じるし。人間はなんで個性ありきで生きる事を決定付けられているのか、世間のシステムはその個性をないがしろにしなけりゃならん造りになっているのかと思う。個性を尊重しようという今の日本の風潮も所詮は嘘だよなとも感じる。結局一般人の枠内に存在する個性しか一般には認められない。ほんと個性を尊重しようと言っている奴の大半が実は根源的には大衆的な奴なんだよな。右の舌で自分の個性を主張して左の舌で他人の個性を卑下してんだから。なら個性ってなんだよとかいう命題までもっていくともう話が止め処なくなるわ。あーまた次回まで話が伸びそうだ。

誰かを好きになっても、そんな誰かを好きになった自分が好きになれない、認められない。そんな心を持って生きていくってのはどういった気持ちなんだろうか。あるいは当たり前に起こる自分の感情の奔流を嫌悪したり畏怖したり生きるってのはどんな気持ちなんだろうか。誰にどう諭されてもそれを認められないのはどんな気持ちなんだろうか。そんなものを抱えている自分を認められないのに、それでも生きていなければならない。生きてしまっている自分を感じるというのはどんな気持ちなんだろうか。わしがそれを感じても別の人間が感じたその気持ちはまたその人だけの気持ちでわしにはやはり分かりようがないわけで。だからかねぇ、そういう人の心の奥にもっと触れてみたいと思うんだよな。

ほんと公式的に笹×荻でよかったよ。主人公笹原はそういったものに苦悩するというタイプではない。そしてそういったタイプでないにも関わらずそういったタイプも含めなんでも受け入れてくれそうな真摯な心がある。たとえインパクトはなくともそういう奴が主人公の物語はどことなく安心できるよ。地上でもがき続けるにせよ空を飛ぶにせよ羽ばたく者には宿木が必要なもんなのさ。

あ、でもおぎーは俺の嫁。

さて、また話がずれて無理矢理戻したところで次回。次回というかげんしけんとは関係ない話。
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プロフィール

まいむ@ムーン

Author:まいむ@ムーン
現在21歳雄。偏屈で批判家のジョーカー。
性格、マメで粗雑。短気で気長。本人すら把握できず。身長、服屋のついたて鏡に入らない程度。体重、焼肉で米を大盛り2杯と普通一杯程度。
実写よりアニメ、特撮を見る。バラエティは情報系の方が好き。朝Φ新聞が嫌い。エノラゲイが嫌い。
音楽家、作詩家、小説家。いずれも毒々しい部分を持つ。最近の口癖は「ってな訳」「いやいや」「成る程」「1ミリもないわ」「鬱陶しい」
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宣伝鬱陶しい。

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